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 投稿者:田仁  投稿日:2009年 3月19日(木)13時17分21秒 p4191-ipbfp05kobeminato.hyogo.ocn.ne.jp
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  長文恐れ入りますが、糸の細道再建が叶いましたので神社再建に向けて次の段階に入る為に書きました。
ご笑覧の程を。
風早高宮考
その昔、有明山山頂に風早高宮と呼ばれる神社がありました。
「糸の細道」は風早高宮の参拝道として、古くから歌にも読まれて来たのでした。
現在は在原業平公や西行法師の歌碑がある三角地点、つまり東側の山裾から見て一番高い峰に風早高宮が建っていたのであり、そこに立てば市川流域が一望出来ますし、下から見上げても目立つ位置だったろうと、往時が偲ばれます。
皆さんご承知の通り、明治維新後に廃仏毀釈がありまして、現在も残る砥堀古墳脇の窪地にあった社務所共々取り壊されて、播磨之総社に吸収された筈です。
しかし問い合せた所、村々の鎮守だと神名簿にも残っていないと言われました。
さて、風早高宮とはどんな神社だったでしょうか?
江戸時代中後期のガイドマップである、播磨名所巡覧図会には、以下

播磨名所巡覧図絵 巻之四
「増位山随願寺医王院 白国村をくの方にあり天台宗
〜中略〜
有明峯 当山東の峯境内入 峯に皇太神宮を祀」

この時代既に「皇太神宮を祀」とありますが、お気付きの様に位置関係では、神社拝殿が有明山山頂にあり、恐らくは北側の砥堀古墳を礼拝する向きだったと思われ、古墳を見守る位置に社務所がありました。
拝み墓の先に実質的なお墓がある形は神社仏閣の成り立ちと共通し、非常に有名なものでは三輪山大社や伏見稲荷など拝殿の先の山頂に古墳がありますが、類例としては上げ切れない程に一般的です。
砥堀古墳は谷の奥まった場所にあり、祖霊が集うとして神聖視された地形の一つである「やな」(周囲の音が集まってよく聞こえる地形)を踏襲しています。

三代実録 巻十三 清和天皇 貞観8年7月
「十三日乙卯。雷雨。烏筮二抜内堅傳點籌木一。大鳥集二大蔵省正倉院納薬倉上一。播磨国无位速素戔烏神。速風武雄神並授二従五位下一。」

類聚国史 巻十六 神祇十六 神位四(清和)
「七月十三日乙卯。授二播磨国無位速素戔烏神。速風武雄神並従五位下。」

三代実録・類聚国史は共に日本の平安時代の正式な国史で、内容はザッと「清和天皇の貞観8年7月13日に雷雨があり占わせた所、大蔵省正倉院の上に大烏が集っているとして、播磨の国無位速素戔烏神並びに速風武雄神に従五位下を授けた」です。
上記は共に延喜式神名帳には見えない「式外」に当たります。
この当時の朝廷の日誌はほぼこの調子で、各地の神々に官位を授けたり上げたりするのも正式な天皇の仕事の一つでした。
現代から見ると奇異かも知れませんが、その地域の重要度を認めて民心を掌握するいいわゆる政(まつりごと)の原型です。
また、無位とあるからには、既にその当時には神社が存在していて、後付けで官位が授けられた事が判ります。
では、風早高宮に祀られていた速素戔烏神・速風武雄神とは?

先代旧事本紀 巻第二 神祇本紀
「大日霎貴、亦名天照太神、亦名天照大日霎尊、亦名大日霎尊。可御高天之原也、又可治高天之原也、又所知高天原也。月夜見尊、亦名月讀尊、亦名月弓尊。可以配日而知天事也、又可以治滄海原潮之八百重也、又所知夜之食國也。素戔烏尊、亦名神素戔烏尊、亦云建素戔烏尊、亦名速素戔烏尊。可以治滄海之原也、又可御滄海之原也、可治天下也。」

先代旧事本紀 巻第三 天神本紀
「天物部二十五部人同帯兵杖天降供奉。〜中略〜播磨物部〜
高皇産霊尊二詔速飄神一曰。吾神御子饒速日尊所レ使二於葦原中国一。而有二疑怪思一耶。故汝能降可二復白一矣。于レ時速飄神命奉レ勅降来。當見二神損去坐一矣。則反上復命云。神御子者既神損去亡坐矣。高皇産霊尊以二為哀泣一則使二速飄命一将二上於天上一。處二其神屍骸一。日七夜七以為二遊楽。哀泣一。斂二於天上一。」

先代旧事本紀は物部氏の側から見た史書であり、有名な古事記や日本書紀とは微妙に違って、物部氏に関する記述が詳しい特徴が見られます。
天皇家のご先祖の中核をなす「天孫降臨」の前に既に渡来していた物部氏は、当時の先進的な製造業一般を意味し、古い言葉で「品々(くさぐさ)の物部」であって、今も残る高砂の「石の宝殿」を造ったのも播磨物部です。
上記は古事記や日本書紀にも登場する「天照大神・月夜見尊・素戔烏尊の役割」と「饒速日尊を使わした、天孫降臨直前の失敗例の最終部分」です。
前者はザッと「天照大神の別名と高天原を統べる役目、月夜見尊の別名と海や夜を統べる役目、素戔烏尊の別名と海や地上を治める役目」が紹介され、冠頭に力の強さを強調する「速」が付いた「速素戔烏尊」が出て来ます。
後者は他の史書の「天照大神から授かった(日本を治める)任務を忘れた」神話に対し、饒速日尊を物部氏の先祖としていた事もあって「不幸にも若死にして任務を果たせなかった」悲しい神話になっています。
ザッと「高皇産霊尊は速飄神に詔して、饒速日尊の消息を調べさせた所、既に亡くなっていたので、速飄神は直ちに報告に帰り、高皇産霊尊は遺体を豊葦原中津国から取り戻すように命じたので、速飄神は大急ぎで行き来してそのようにし、天界で丁寧な七日七夜の葬儀が行われた」内容です。
「任務を忘れた罪を弾じに雉が天界と行き来し、雉を怒って殺した返し矢に逆に射殺されてしまう饒速日尊」の殺伐感漂う他の神話よりも、しめやかに落ち着いてます。
やはり、後の天皇家による支配権確立に伴った権力移譲が齎す、一種の緊張関係と申しましょうか、神話の装飾改変部分は無い方が、話として死者を悼む気持ちが強くて綺麗です。
この速飄神が速風武雄神の原型と思われ、物部氏渡来の際に本拠地と船の行き来を担当したのが由来と見えて、風早神社は四国の伊予国造神社を元社に、大阪や東北にも全国に広く分布しています。
肥前国風土記に「姫古督(ひめこそ)神社」を祀る一件で登場する、宗像の物部珂是古(もののべのかぜこ)は幡を飛ばして占う巫子として有名なエピソードです。
伊予国造も宗像から分かれた物部氏で、現代に当て嵌めれば「海運業で手広くやっていた」ので、一種「支店」のように風早神社がアチコチに分散したのでしょう。
そう考えると、砥堀の風早高宮の位置も市川を使った古代の水運に於いて、見張り台として、また船を川上に引き綱で引く差配に、絶好の位置にあったと言えます。
ちなみに高皇産霊尊は別名「高木之神」とも言い、姫路市内の地名にもあります。
先代旧事本紀では単独で詔していますが、他の史書では天照大神と共に図って天孫降臨する神を決めたりする知恵の神様の役割です。
古事記ですら江戸時代中期に『発見』されるまで長く忘れ去られており、播磨風土記も幕末にようやく京都の堂上家から見つかるなど、長く古代史が御座なりにされていた為に、色々と不思議な事があります。
高木之神を祀る地区が(恐らくは権力者による私財没収を伴って)不可触の立場に落とされた様な「旧勢力追い落とし」の迷走が、特に西日本を中心として戦国期以降にあり、それと風早高宮の命運も恐らくリンクしています。
江戸初期に、延喜式神名帳式外の従五位下を賜った速素戔烏神・速風武雄神を皇太神宮と言い張って不可触を免れたのは良かったが、代償に明治初期の廃仏毀釈はなまじ皇太神宮とした為に逃れられず、消滅して仕舞ったのでしょう。
「禍福はあざなえる縄の如し」とか、中々歴史の荒波は厳しいです。
また、砥堀村では昭和の半ば迄、定期的に「お狐降ろし」を行っており、春川神社と南の小玉稲荷の間でお狐が交互に降りて、例えば「わしは小玉や」と名乗られたと伝えています。
古代の凧である「幡」を飛ばして神降ろしをした巫子として有名な、宗像の物部珂是古の流れを引く事を考えると、ある意味当然と言えましょう。
 
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