『赤椀の世直し』掲示板2(自由テーマ)お一人・1件/日
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グスク問題は
投稿者:
名護
投稿日:2012年 5月17日(木)11時58分39秒 softbank221096125152.bbtec.net
返信・引用
編集済
ひとまず、置いておきますか。また何が思いつきがあれば取り上げましょう。
鍬形石を頭に乗せるというのも、たとえば人物埴輪に表現されているなど、明確な証拠がなければ、議論が発展しません。古事記と日本書紀の問題を続けたいと思います。
Re: 「くしげ」、「くしろ(釧)+け」
投稿者:
琉球松
投稿日:2012年 5月16日(水)13時10分51秒 ai126213046073.5.tss.access-internet.ne.jp
返信・引用
編集済
鍬形石に近い形の貝輪を頭の乗せて踊る。。。って、なんか奇異な感じですけど、現代人のうかがい知れないところですかね。
これ、アイヌの儀礼用冠「サパンペ(
http://www2.ttcn.ne.jp/kobuta/bunnka5/b286.htm
)」のような使い方ですヨ。沖縄女性の「ガンシナ」みたいですけど?
櫛。。。う~ん、むずかしいです。宜野湾市の「安座間原遺跡」など、被葬者の頭部近くに添えられているシャコ貝が櫛に相当するようにも思いますけど、ギザギザしてますしね?
それと、浦島太郎がいただいた「玉手箱(タマクシゲ)」は乙姫様の変身グッズの入れ箱でしょうから、その中に櫛(クシ)や貝輪(クシロ)が入っていたかもしれません。
「三輪山伝説」では蛇にすり替えられたとも考えられますけどね。
画像は、『真志喜安座間原第一遺跡/宜野湾市教育委員会 1994 』より
「くしげ」、「くしろ(釧)+け」
投稿者:
名護
投稿日:2012年 5月16日(水)11時14分33秒 softbank221096125146.bbtec.net
返信・引用
編集済
「くしげ」、「くしろ(釧)+け」説は面白いと思いますね。
鍬形石のもとになったゴホウラ。そのゴホウラを金隈型の腕輪(クシロ、鍬形石の原型という説もあり)にして、東京で踊りをされている女性にあげたことがあります。奄美のご出身で奄美産のゴホウラと交換で渡したものです。しばらくして女性は、その鍬形石に近い形の貝輪を頭の乗せて踊りに使うようになりました。丸めた髪を輪の部分に差し込むと固定でき、かなり激しい動きにも耐えられるのです。
九州時代のゴホウラ貝輪は、腕にはめられていて、従って腕輪であることは明確ですが、しかし、畿内を中心に分布する鍬形石に変化したゴホウラは、私の知る限り、腕輪として腕にはめられて出土した例はまったくありません。
私の近所にある高松茶臼山古墳から出た例では、男女の遺骨が頭を向け合っていて、そのつき合わすようにした二人の頭の真ん中に二つの鍬形石が蝶が羽ばたくような形で置かれていたそうです。やはり腕にではなく頭の関係あることを示唆しているのではないか。
そうすると、この場合のクシロは、櫛(クシ)に近い扱いでしょう。櫛についてWikiから拾ってみました。
***
日本語の櫛(クシ)
日本語で櫛は同音の串と同じく、「霊妙なこと、不思議なこと」という意味の「奇(く)し」「霊(くし)び」が語源となっている。このため呪術的な意味付けが見られ(後述)、他方では女性が髪を梳くことから女性格の象徴的な物品としても扱われる。
語の読みからは「苦死」に通じるため、道に落ちている櫛を拾うことは「苦と死を拾う」ことにつながり、縁起が悪いことと忌み嫌われる。どうしても拾わなくてはならないときは足で踏んでから拾う。贈り物にするときは忌み言葉として「かんざし」と呼ぶ。
そのほか「94」を「くし」と読む語呂合わせから、櫛を大切に扱い、人々の美容への認識を高めてもらおうと日本の全国美容週間実行委員会が9月4日を「くしの日」と定めた。
櫛の呪力
日本では古来、櫛は別れを招く呪力を持っているとされ、現代の日本人でも櫛を贈答品にしたり気軽に貸し借りするのを嫌がる人は少なくない。一方で、魂の宿る頭に飾るものであることから、自らの分身として旅立つ人に手渡しもした。
『古事記』で、イザナギ命は、妻のイザナミ命が差し向けた追っ手から逃れるために、櫛の歯を後ろに投げ捨てたところ、筍に変わった。同じく『古事記』で大蛇を退治しに出向くスサノオ命はクシナダヒメを櫛に変えて自分の髪に挿した。
天皇は斎宮として都を旅立つ皇族の少女を見送る儀式で、「別れの櫛」を手ずから髪に挿し別れの言葉をかけた。彼女達は身内か天皇に不幸があるまで都に帰ることはできず、巫女であるため任務を解かれるまで恋愛もできない。逆に成人式に当たる「髪上げの儀」では、大人社会への仲間入りの象徴として櫛が少女の髪に挿される。この儀式の直後に婚礼を済ませることもあった。
****
玉グスクの城壁の中に、ゴホウラ形に造った御嶽があり、先に図で示しました。また中城城趾の中の御嶽、チゲー御嶽は、諸岡型のゴホウラ腕輪によく似ていて、これらが櫛(クシ)と同意のもので、形も相似形だとすると、グスク全体は、櫛を入れているクシゲであるわけです。クシゲがクシグ、グシグ、グシクになったということ。あり得ないことではなさそうです。
Re: 玉串(たまぐし)、玉櫛笥(たまくしげ)、磯城(しき)
投稿者:
琉球松
投稿日:2012年 5月15日(火)16時26分33秒 p4190-ipbfp602yosemiya.okinawa.ocn.ne.jp
返信・引用
編集済
浅見徹さんの著書『玉手箱と打出の小槌(中公新書)1983 』を読み込んでいるんですけど。。。
氏は *** 奈良時代から平安時代に時代が移って、「け」という語形が古語化して、一般に使われなくなった。このため「くしげ」は、「くしのはこ」と言いかえられるようになる。他方、各種の「はこ」の登場とともに、「くしのはこ」を包括する、新たな「てばこ」が生まれてきて、多用されるようになってきたのである。*** と書いています。
「くしげ」のほうが古いことになりますが、これは「くしろ(釧)+け」と考えることも可能でしょうかね。
また、『家持集』の "くしげなる鏡の山を超えゆけば 我ら恋しき妹が姿か" を引用して *** 地名「鏡の山」にかかる枕詞「くしげなる」が使用可能であるためには、くしげの中に鏡がしまわれるならわしが前提になければならない。*** としています。
「三輪山伝説」の箱の中の蛇の事にも言及していて、宮古島「張水御嶽」との関係もありそうですから、もうすこし頑張ってみま~す。
沖縄島南部の「玉城グスク」の原義が、「玉(ゴホウラ)のクシ(釧)のケ(城)」と考えることもOKでしょうかね?
玉串(たまぐし)、玉櫛笥(たまくしげ)、磯城(しき)
投稿者:
名護
投稿日:2012年 5月15日(火)11時14分29秒 softbank221096125151.bbtec.net
返信・引用
編集済
城(グスク)の語源、玉グスクと玉釧(たまクシロ)に、もう少しこだわってみましょう。古代、信仰に関係した言葉に「玉串(たまぐし)」「玉櫛笥(たまくしげ)」があります。Wikiやネット辞書から拾ってみました。
****
玉串(たまぐし)とは、神道の神事において参拝者や神職が神前に捧げる、紙垂(しで)や木綿(ゆう)をつけた榊の枝でる。・・
玉串は杉、樅、樫の枝などを用いることもある。神宮大麻の祓い串のように、参拝の証として持ち帰り、千度祓い万度祓いを行う例もある。
日本神話では、天照大神が岩戸隠れした際、玉や鏡などをつけた五百津真賢木(いほつのまさかき)をフトダマ(の命)が捧げ持ったとの記述が、玉串の由来とされている。実際には、神霊の依代が玉串の由来であると考えられている。
「たまぐし」という言葉の語源については諸説ある。平田篤胤らは神話の記述のように玉をつけたから「玉串」だとし、本居宣長は「手向串」の意としている。「たま」は「魂」の意だとする説もある。・・・
この漢字表記における「玉串」という地名が、大阪にある。
天平勝宝6年(西暦754年)、河内の風水害をおさめるため、旧大和川上流より櫛笥(くしげ)が流された。そして、櫛笥の流れ着いた場所に、玉串明宮(現在の津原神社)が建てられ、その周辺一帯を玉串と呼ぶようになったとされる。現在は東大阪市内の町名で、近鉄バス山本線の停留所や交差点の案内標識ではたまぐしと表記されるが、地元小学校付近ではたまくし読みが定着しており、町名としては後者が正しい(河川-玉串川)
****
****
玉櫛笥(たまくしげ):くしげの美称。・・・
くしげの蓋と身にかけて、「身」「二上山(ふたがみやま)」「三諸(みもろ)」にかかる。
「玉櫛笥(たまくしげ)みもろの山のさな葛(かづら)・・」〈万葉集・九四〉
****
三諸(みもろ)といえば纏向遺跡、箸墓に関係しますね。かつては磯城郡(しきぐん)に属していました。仲松弥秀先生のグスク磯城(しき)起源説がありますので、なんとなく関連が出る感じです。箸墓伝説は崇神紀10年の条にあって、百襲姫と三輪山(三諸山みもろやま)の神のことですが、櫛笥(くしげ)に入っていた三輪山の神(へび)に驚いて、箸でホトを突いて死ぬという奇怪な話。この伝説が、ヤマトと沖縄の断絶を示唆する物語であることは前に書きました。
さて、それらの言葉が「グスク」の語源に関係するかどうか・・・・
Re: 宮古島や奄美・九州、瀬戸内の言葉から
投稿者:
琉球松
投稿日:2012年 5月14日(月)14時55分5秒 ai126212000008.5.tik.access-internet.ne.jp
返信・引用
編集済
「グスク」の語源が「具足」とは関係ないとすると、やはり「キ(城)」が「ク」に転じているように思いますね。
「グスキ・クスキ」ということになりますが、難解です。
「城」の文献上の所見は、天智天皇代に築かれた「水城」のようですから、この時代にはまだ古い言い方が残ってのでしょうか。奈良の「磯城(シキ)」とグスクの関係を書いたのは仲松弥秀先生でしたかね?
奄美市出身の女性シンガー「城 南海」。。。名字の「城」は「キズキ」と読みます。奄美でも普通はグスクのはずなんですが、その経緯もよくわかりません。
あとは「陵(みささぎ)」ですけど、これって「御ササ城」ですかね。よくわかりませんが、「陵」は「しのぐ(あるものを乗り越える)」との意味もあるようで気になります。
名護先生、なんか面白いヒントなどないですか?
宮古島や奄美・九州、瀬戸内の言葉から
投稿者:
名護
投稿日:2012年 5月13日(日)17時09分34秒 softbank221096125149.bbtec.net
返信・引用
編集済
グスクの語源、今ひとつ何か決定的なものが欲しい感じですね。
琉球松さん、
宮古島や奄美・九州の資料に何かありそうな気もしますが・・・どうでしょう?
古墳時代が終わり、仏教の時代になって古墳を対象とする祭りも終わったと思います。あの前方後円墳を単に「墓(ハカ)」と呼んだとは考えにくいですよね。グスクに関連ある名が隠されたという可能性があると思いますが・・・。
オーストロネシア語系とかアイヌ語系とかに求めるのはその後でしょうか。
「古代に石を積み上げて囲い、そこへ動物を追い込む場所をシーラ」という。これも気になることです。
釧・白・城・代・背・後
投稿者:
琉球松
投稿日:2012年 5月13日(日)09時43分48秒 ai126241043004.tik.access-internet.ne.jp
返信・引用
編集済
「苗代」って言い方がありますけど、「城」と同じく "土で成" で、仕切るって感じなんでしょうか。
これって古くは円形に。。。つまりはサークル(輪・和・倭・環)だったとも言えるんじゃないでしょうか?「釧」が金属製だとしても、ゴホウラ貝輪などの白さとの関係はあるんでしょうね。
「クシロ」は、琉球方言的には「クシル」に転じるでしょうから、「ク(キ)」が後にくっ付いて「クシルク(キ)~クシュク(キ)~グスク(キ)」。。。「ク(キ)」は集落名「小禄・屋比久・兼久・金久・小宿・佐手久・実久・目手久・荒木・新垣」などの「ク(キ)」で一定のエリアを意味するかもで、「勢理客・瀬利覚」も「セリカ+ク」か。。。ってトヨタ自動車の営業マンか!(笑)。
名護先生は、以前に「グスクを新旧に分けて考える」みたいなことをおっしゃっていましたね。基本的にはそこから発想したほうがイイと思います。
「具足」に説得力が加わったとしても、主導権争いが始まった頃の新しい言い方で、聖域としての名称はまた違う響きだったんじゃないかなと。
で、仲松弥秀先生の『神と村(琉球大学沖縄文化研究所)1968 』を久しぶりに引っ張り出してみたんですが、"腰宛思想" の感覚はグスクの原型って感じがしますよね。これはたぶん「後・背」でしょうから、立地的には「山背(ヤマシロ)」ですね。
ただ、氏は例外的?に浜や海岸の岩場など、かならずしも村の背後でない場所のグスクがあるとして、多くの場合人骨が納められていると指摘されています。
この場合は、死を再生する意味もあるでしょうか。なんか前方後円墳の思想とも繋がる感じがしますし、奄美大和村の「国直グスク」や沖縄うるま市の「具志川グスク」、徳之島の事例など、逃げ城の機能を持っている施設にもそんな印象を持ちます。
それと、これも思いつきなんですけど。。。アマミコの対としての「シロミコ」も女性の再生能力を強調しているかも。
伊波普猷は「島を知らずにはいられない」って、島ン人の気質を言い当ててますけどね。「グスク」から解放されるのは何時になるんでしょうか(笑)。
写真は、屋良座森グスク跡地から望む軍事施設「みいグスク」
シーラとシロ
投稿者:
玉城 麗子
投稿日:2012年 5月13日(日)01時57分3秒 p21055-ipngn100102yosemiya.okinawa.ocn.ne.jp
返信・引用
古代に石を積み上げて囲い、そこへ動物を追い込む場所をシーラとTVで説明していました。
次第にその囲いの中へ人が住むようになったとも。シーラがシロに変化して城に・・?
珍説八景談シーラの巻その一
ぐしくは、御宿・・?その二
三重城のミーグシクは、「本花風」で歌う時「グシィク」です。
「ミグスィク」
みぐすぃくに ぬぶてぃ うちまにく あうじ(扇)
またもめぐりきて 結ぶごえん
頭(かしら) 結ひ かわち 赤ちゅ おびしめて
我ん連れてお旅 いめや ならに
それが「ミグスク」と歌うととてもおかしいのです。
城、シロ、グスク同語源説
投稿者:
名護
投稿日:2012年 5月12日(土)19時03分9秒 softbank221096125152.bbtec.net
返信・引用
編集済
グシク(グスク)と城(シロ)と釧(クシロ)、これら三者の同語源説、無駄かも知れませんが、もう少しこだわってみます。
「具足(グソク)説」とも関連あるかも知れません。城やグスク、さらに具足(ぐそく:身を守る甲冑などのこと)も戦時の防御的機能をもったものです。
古代の貝輪もゴホウラ、スイジガイ、いずれも精神的な意味で、戦乱を沈め、集落や人々を守る意味をもったものというのが赤椀説の基本です。沖縄の貝は沖縄で使われたというより、古代のヤマトで使われたものでした。ですから「城(しろ)」との関連もあるものと考えるのが自然でしょう。ところで、城(しろ)の語源については、Wikipediaには次のようにあります。
・・・
“しろ”の語源
現在では「城」という字を訓で“しろ”と読むが、かつては“しろ”という大和言葉は存在しなかったと思われる。古代から中世初期までは、「城」のほかに「柵」という字も用い、ともに“き”と呼ばれていた(→城 (き))。たとえば、大宰府のそばにある大野城は“おおののき”であり、山形県の出羽柵は“いではのき”であった。
しかし、延暦13年(794年)11月15日に“やましろ”と訓じられていた山背国が山城国に改名されると、「山城」という語を“やましろ”と読むようになる。その後、山に城を造って領国を守る時代が訪れ、中世後期には「城」は“しろ”と読まれた[1]。文明6年(1474年)の『文明本節用集』には、「城」に“シロ”の訓がある。
・・・
城(シロ)が山背、山城起源であるというのは興味をそそりますね。沖縄の古い神歌の中でヤマト地名が最も多く読み込まれている言葉、「ヤマト・ヤマシロ(山城)だからです。赤椀、黒椀がヤマト、ヤマシロから下って来た、という。実際にはヤマシロと言わず、ヤシロですが、山城と解釈されています。ですから古代日本にシロという言葉はなかったという上の解説は疑問ですね。
では、山背と書いて何故ヤマシロと読み、山城になったか、検討が必要だと思います。背中は後ろ(ウシロ)にあって、お腹は前。背をしろと読むのは「うしろ」から来たのでは? 後ろは悪い意味でも使われますが、「後ろ(ウシロ)盾」といえば、防衛に関係した重要な意味になります。沖縄では、後ろをクシといい、腰と解釈されています。腰当て。村の後背にあって、村の守りになる聖なる守り神の居ます所(森)。
山背は山の背、すなわちヤマノウシロ。ヤマシロ。その後背の山に造られる城(キ)が山シロ、それが土地の名になり、山城。
ヤマトの城(シロ)は後ろ盾の意味のシロから、沖縄の城は後ろという意味のクシから来てクシクになりグシク、グスクになったなら、城はシロであり、グシクであると。グシクのクは難しいですが・・・、九州あたりで、小さい城をコシっ子と言っていたのが沖縄でグシック、グシクになった、と。(無理でしょうかね)
腕輪をクシロというのは、先に述べたのとは逆に、ウシロが元でクシロが後に出来た言葉かも知れません。身を守る聖なる場所の名が、腕輪にも転写されて、クシロという名称が与えられた、という考え・・・??。
(笑い)
なお、木下尚子さんは、ゴホウラなどの貝は白(シロ)いから大事にされたという意味のことを述べています。この白(シロ)も無関係と言えないかも知れませんね。
「城すなわちグシク(グスク)」語源に関する新説??
投稿者:
名護
投稿日:2012年 5月11日(金)11時51分52秒 softbank221096125156.bbtec.net
返信・引用
編集済
沖縄、琉球では、グスク(グシク)に城の字をあてます。首里のグシク(スイグスク)は首里城。具足説ももっと納得いく説明が出来るといいのですが・・・。何故、城がグスクなのか、琉球の歴史問題で最も大きな謎の一つです。
『古事記』(小学館、新編日本古典文学全集1)をぱらぱら見ていたら、添付の図のように貝輪由来の腕輪の図が「玉釧(タマクシロ)という言葉と併せて載っていました。「玉クシロ」といえば、ただちに「玉グシク」を連想・・・するとクシロとグシクが繋がる感じ・・・クシロがグスクの語源に関係あるかも、と思ったのでした。(写メの図は、上記本の302ページを折り曲げて303ページの一部と重ねたもの)。
仁徳天皇の女たちが腕輪をめぐって争うというくだりの記述。
・・・クシロが城(シロ)とグシク(グスク)の共通の語源ではないか、という考え、・・・無理でしょうかね・・・沖縄でのクシは、腰の意味も。私の生まれ島、安慶名のグスク、その城(グシク)は集落のクシ(後ろ、ウシロ)にある安慶名グスク、村の「腰(クシ)当て森(こしあて森)」(村の後で守りとしてバックボーンの意味)でもあります。沖縄で最も古く由緒あるグスクは、玉グスクです(タマグスクの形状は最も古い玉クシロすなわちゴホウラ製腕輪がモデルであったということは先に図で示しました)。
(笑)、となるのかな・・・。クシロのロの扱いが難点です・・・
グスク
投稿者:
琉球松
投稿日:2012年 5月10日(木)11時06分34秒 ai126212001142.5.tik.access-internet.ne.jp
返信・引用
編集済
上里隆史さんもブログ『目からウロコの琉球・沖縄史』で、「具足」は当て字にすぎないと書いてましたが、どうも検討の余地があるような感じでしたね。
まあもちろん推測ですけど、ヤマト側からの武士の来島や、徳之島の「カムイヤキ土器」の伝搬など、状況証拠?はあるかもしれないんですよ。
音的にも「具足」の「グ・ク」は、母音が「u」で問題ないとして、母音が「o」の「ソ」が「ス」に転じることは、琉球方言としては、これも問題ないわけで。。。
「グスク」の語義語源の研究は、まだまだ不十分だと思いますから、日本本土からの大勢の来島とリンクして考えてみるのも有用だと思うわけです。Wikipedia参照『
http://ja.wikipedia.org/wiki/
具足』
ついでですけど。。。「トン・トゥン.ティン・テン」などは、奄美の地名研究仲間とのやり取りでは、「港」を意味するのではないかと考えますね。沖縄諸島で言うと「運天・天願・馬天」。奄美諸島の「諸鈍(加計呂麻島)・一トン(奄美市)・屋鈍(宇検村)・嘉鈍(喜界島) etc 」。南走平家との関係あるかもで『平家物語・保元物語』などを探っているところです。
写真は、うるま市の「天願グスク」
琉球松 さん
投稿者:
玉城 麗子
投稿日:2012年 5月 9日(水)17時56分24秒 p21055-ipngn100102yosemiya.okinawa.ocn.ne.jp
返信・引用
琉球松 さん
「具足」とグスク いかがでしょうネ。
奄美諸島に多くある平家の足跡、
沖縄諸島での研究者の方といたしまして奥里将建氏の書籍を、
タイムス記事からの転載でご紹介いたしたいとおもいます。
「沖縄に君臨した平家」 琉文21より
01/17: 1964年10月8日ー『沖縄タイムス』奥里将建「沖縄に君臨した平家」
>怪傑・平清盛をして天寿を全うさせ、彼が抱いていた南宋貿易の夢を実現させ、
中世日本の様相はすっかり一変していたかも知れない。(略)
戦後のわが歴史学界において、清盛に対する評価が大分改まって来たのも、
彼の経綸と人間的魅力を高く買って来たために外ならない」
奥里将建(1888年5月18日~1963年12月29日)
http://ryubun21.net/index.php?blogid=1&archive=2012-01
加計呂麻島の諸屯 不思議な場所ですが、
古典舞踊「諸屯」から、いろいろ思いを馳せました。
Re: 南走平家の裔たち
投稿者:
琉球松
投稿日:2012年 5月 9日(水)11時06分30秒 ai126212152096.5.tik.access-internet.ne.jp
返信・引用
編集済
玉城麗子さんへ
『平家物語』の一節に「具足」が出てきますね。
この「具足(グソク)」が、奄美沖縄の名称としての「グスク」の起源ではないかと考えてますけどどうでしょうか。
平家の足跡は、比較的に奄美諸島のほうが強烈で、沖縄諸島では埋もれて見えにくくなっているんでしょうね。
『誰も見たことのない琉球/ボーダーインク 2008 』などの著者 上里隆史さんは、那覇港をメインとする古琉球以前は、奄美(笠利湾?)に活況があった旨のことを言ってました。
以下、『平家物語』より
*** 誠に人は十三、われは十五より見そめ奉り、火の中水の底へもともに入り、ともに沈み、限りある別れ路までもおくれ先だたじとこそ申ししかども、かく心うき有様にていくさの陣へおもむけば、具足し奉り、ゆくへも知らぬ旅の空にてうき目を見せ奉らんもうたてかるべし。いづくの浦にも心やすう落ちついたらば、それよししてこそ迎へに人をも奉らめ ***
画像は、平資盛を祀る「大屯神社」加計呂麻島諸屯・ブログ『徒然なる奄美』より転写
南走平家の裔たち
投稿者:
玉城 麗子
投稿日:2012年 5月 8日(火)11時25分37秒 p21055-ipngn100102yosemiya.okinawa.ocn.ne.jp
返信・引用
親川光繁氏の著作を最初に拝見しましたのが、「あゝ北山王国 南走平家の裔たち 親川光繁」でした。素朴なレイアウトながらとても真実味があり驚きました。
のちに読んだ、「与勝離島の混血たち―一実業人の観た琉球歴史― 親川光繁」では、混血の表現に体型が先祖の方が大きく、だんだん骨格が小さくなって行く事がかかれています。
(参考:沖縄県南城市で2500年前に出た武芸洞人と銘銘された人骨、 甕棺から出た人骨は縄文人よりも歯が大きい。)
平家のお話はさらに続きまして、
二年程前に「どっこい維盛生きていた その後の平維盛 [単行本(ソフトカバー)]坂本 顕一郎著」
最近出版されました「南走平家による琉球・沖縄王朝史 上巻 [単行本(ソフトカバー)] 大川 純一 (著)」
親川光繁氏の書籍をきっかけとしまして、平家のお話はいろいろ最近も新しい情報が開示されているようです。
琉球の歴史の影の部分が様々な形で発掘されたらいいなと思います。
浜比嘉島
投稿者:
名護
投稿日:2012年 5月 8日(火)10時15分23秒 softbank221096125151.bbtec.net
返信・引用
編集済
親川光繁さんは浜比嘉島出身の人であったと思います。
浜比嘉島は、久高島以上に沖縄の祖神アマミコ信仰の盛んな島です。前に書いたかもしれませんが、アマミコの対遇神のシロミコ(シルミチュー)の墓は洞穴になっていて、その中に大きな壷といいますか、入れ物があります。毎年海岸から石を採ってきてその中に入れる習わしがあったそうです。
ある時、その中味を全部出したところ、「藤原」と書かれた木片?があったそうです。それが何に載っていたか、記憶にありませんが、ひょっとしたら親川光繁さんの本だったかもしれません。
安慶名(あげな)の村ノロたちが年に一度拝む井泉にヌーリガー(ノロ井泉の意)があります。ヌーリガーと呼称される川(安慶名村と田場村の境にもなっている川)の源泉です。その源泉の上の岡に上がると与勝半島の向こうに浮かぶ浜比嘉が望めますが、神女たちの遥拝の対象だったそうです。アマミコ信仰が内陸部の村々にもあった証拠でしょう。(ちなみに私はそのヌーリガーから引いた簡易水道の水を、六歳から二十歳まで飲んで育ちました。一度も涸れたことのない川です。田場という地名もその川の水に由来するのでしょう。金武湾に面した河口一帯は、弥生時代相当期の遺跡が集中している地域の一つです)
名護先生
投稿者:
玉城 麗子
投稿日:2012年 5月 7日(月)01時23分55秒 p21055-ipngn100102yosemiya.okinawa.ocn.ne.jp
返信・引用
編集済
親川光繁さん、苗字が同じ名護先生と遠い昔繋がりがあったかもと思っています。
琉球松さんにもお会いしてみたいと思います。楽しみにしております。
伊江島
投稿者:
琉球松
投稿日:2012年 5月 6日(日)12時52分23秒 ai126212138071.5.tik.access-internet.ne.jp
返信・引用
編集済
名護先生
お誘い、ありがとうございます。
が。。。まだまだ忙しい日々が続きますので、お約束ができません(泣)。
先日は、百合まつりの仕事で伊江島にお邪魔しました。
久しぶりに「タッチュウ」に昇り、沖縄島や伊平屋諸島を眺めてみたんですけど、この島はアマミキヨ集団にとってもランドマーク的存在だったんじゃないでしょうかね。
ゴホウラ貝輪のトンガリや、「海幸山幸」の "鉤" の象徴のような。。。あらためてそんな印象を持ちました。
写真は、タッチュウから望む沖縄島と、ゴホウラ貝輪半加工製品などが出土した具志原貝塚近くの「ニャティヤガマ」内部
玉城さん
投稿者:
名護
投稿日:2012年 5月 6日(日)10時46分34秒 softbank221096125153.bbtec.net
返信・引用
親川光繁さんの著書、読んでみたいと思います。
時間が合えば、琉球松さんにも来てもらいましょうかね。
Re: 吉田兼好
投稿者:
琉球松
投稿日:2012年 5月 5日(土)10時54分24秒 ai126213014197.5.tss.access-internet.ne.jp
返信・引用
編集済
名護先生へ
吉田兼好の歌には「わかうら(和歌山県和歌浦)」を歌ったものが何首かあるようですが、この中の一首では、「わかうら≒わだつみ」と解釈されています。
これが、謎解きのヒントになるとは思えませんし、一応引用しますが、彼の歌の数々は『おもろさうし』との関係もあるんじゃないかとの印象を持ちますね。
以下、『兼好法師家集/西尾実 校訂(岩波文庫)1937 」より
*** わかうらのまさごや ちよのありかずに よむともつきぬ ためしなるらん・・・・注・わかうら 和歌山県海草郡西部の江湾。和歌山市の南にあり。わたつ海の浜の真砂を数へつつ君が千年の有り数にせむ(古今、巻七)。***
吉田兼好
投稿者:
名護
投稿日:2012年 5月 3日(木)17時00分32秒 softbank221096125155.bbtec.net
返信・引用
編集済
私の生まれた「うるま市の字安慶名」には兼城(かねしろ)を名乗る家があり、兼城と親川は同族だったそうです。その兼城家の屋号が「ヤマト」といいます。兼城の家に行ったら系図を見せてくれました。その系図の途中に「吉田兼好」が出ているのには笑ってしまいますが、しかし調べると兼好は、アメノコヤネを始祖とする中臣鎌足の流れの人。沖縄で「ヤマト」を屋号とするのも偶然とはいえない気もします。兼城の兼は、兼好の兼をとったのかも知れません。
垂仁天皇がタジマモリを常世に派遣し、「非時香菓(トキジクノカクノミ)」すなわちミカンをとって帰るという話。それに百襲姫がホトを突いて死ぬ話、またアマテラス(神鏡)(および曲玉?)を「眩し過ぎる」との理由で奈良から追放しますが、いずれも垂仁の時代のことです。これは沖縄とヤマトの断絶を語る一連の事件を象徴的、隠喩的に語る物語の一部であろうと思います。
垂仁の命令で常世国、すなわち奄美・沖縄にミカン狩りに行ったタジマモリ。これは、太平洋戦争に例えれば、山本五十六が開戦の端緒に、長駆して敵国最大の基地であった真珠湾を奇襲したように、「世直し」勢力の精神的根源地であった奄美・沖縄の海岸の村々の神女たちの首狩りを行なった話であろうと思います。橘、ミカンは、永遠の命の象徴ともされます。垂仁の時代にその根拠地(奄美・沖縄)を滅ぼし、次の景行天皇の時代には九州の女性首長国を「征伐」し、さらに中部、関東への遠征軍を派遣した話が続きます。荒ぶる時代の再来、すなわち旧出雲勢力の台頭。垂仁の子、ホムチワケの物語が象徴的に語っています。(ホムチワケは人間の子ではなく、ほとんど銅鐸の精霊として出雲神の再現物語と読むべきです)。
それは、奄美・沖縄から言えば、苦難の時代(苦世)の始まり。沖縄の民話でいうと、火之神、水の神であるキジムナーが、キジムナーの子を焼き殺した老夫婦に復讐する話・・・・。垂仁の命令で、沖縄の海岸の村々を10年かけて焼き払ったのではないか。奄美、沖縄で生き残れたのは何人いたでしょう。全滅ではないでしょうが・・・その後一千年近くの歴史が消えているのは、そのためではないか。今後の課題です。
日本本土ではその後、数百年。そのように再来した荒ぶる時代に一定の区切りを付けたのが仏教であると思います。外来の仏教でなければ、この国、日本治まらないと思った人々の代表が聖徳太子であろうかと。聖徳太子は実在の人物でない、という説も最近出ていますが、仏教派の代表とよめばいいのではないでしょうか。古事記、日本書紀の編纂の八世紀頃まで、日本は神話時代とみるべきかも知れません。
非時香菓
投稿者:
琉球松
投稿日:2012年 5月 3日(木)11時46分13秒 ai126213045069.5.tss.access-internet.ne.jp
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編集済
名護先生へ
伯母様は大往生でしたね。ウートートゥ。
以前に、鎌足を始祖とする門中が沖縄にある。。。と紹介されたのは、先生自身の事だったんですね。
「橘」との繋がりも意外なんですけど、タジマモリが常世からもたらしたとする「非時香菓」は、『記・紀』でも柑橘系果実と解釈されてますね。
しかし、この植物は古くから西日本一帯に普通に見られるわけですから、なにも10年を費やし海を超える?必要もなかったんじゃないでしょうか。
『記・紀』編纂時には、すでに橘氏は存在していたかもしれませんし、そもそも。。。例えば沖縄口の「タチバナ(初代・始祖)」などの意味だったかもですね。奄美大島の伝説『ギスぬタチバナ』をも連想してしまいます。
名護先生
投稿者:
玉城 麗子
投稿日:2012年 5月 2日(水)19時39分42秒 p21055-ipngn100102yosemiya.okinawa.ocn.ne.jp
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抹消された沖縄の影
親川光繁氏も探していましたネ。
同じ親川姓でどこかで関連性あるかもしれませんネ。
私の母方の曾祖父も四国の人で苗字が松島でした。阿波の徳島で藍を取り扱う豪族だったそうで、
藍を求めて奄美へ来たらしいです。
「沖縄の影」にあてはまるかどうかわかりませんが、名護先生が沖縄へいらした時、
親川光繁氏の研究に関する少しばかりの資料をお渡ししたいと思います。
うけい
投稿者:
名護
投稿日:2012年 5月 2日(水)17時56分12秒 softbank221096125150.bbtec.net
返信・引用
編集済
天照大御神と須佐之男命のあいだで争われた「祈誓」(うけい)の場面、次に書かねばと思っていましたが、既に書いた方にいたのですか。特に「祈誓の判定のつけ方」。古事記と日本書紀の大きな違いを示す大事な指摘です。その他に同様な違いが数多くあり、少しずつ挙げてみようと思います。
私がその両書の違いに細かくこだわる個人的な理由があります。
私の名護という名乗りは、母方のもので、父方は親川といいました。高校生までは親川を名乗っていたのでした。その親川の系図なるものをみると、何と中臣鎌足から始まっています。藤原不比等の父です。一方、現在の私は、四国に来て40数年、亡き妻の実家で、サザエさんのマスオさん的存在になっていて、実質婿養子です。その実家(幡家)のいわれをみると、橘家です。ミヤコで謀反を企て、露見して九州に流され、後に九州からも追われ、讃岐に流れついたという。橘の始まりは、橘三千代。
これらの系図、由来がどこまで本当か、疑えば切りがないわけですが、意味あるものと捉えると、藤原不比等と橘三千代、日本書紀と古事記、両方の編纂を各々連携しながら企図した者たちに連なる可能性もあるわけです。
そんなこともあって、両書の違いのなかに何かを(特に抹消された沖縄の影を)見つけることが自分の仕事のように感じられる、といえば大げさですが、国家起源に関係したにもかかわらず排除された「沖縄」を入れ込みながら、両書の記述の差をみていきたいと思っているわけです。
先月末、父方の伯母が102歳で大往生しました。一方、母方の伯父も同じ102歳まで生きました。両方とも長生きの家系らしいので、まだ十分時間はありますので、あせらず成し遂げようと・・・(笑)
古事記と日本書紀(8)
投稿者:
名護
投稿日:2012年 5月 2日(水)17時04分49秒 softbank221096125153.bbtec.net
返信・引用
編集済
イザナミ、カグツチおよび熊野のことついては、『赤椀の世直し』第四章の中で以下のように書いたことがあります。・・・新宮市の神倉山ゴトビキ岩の中から見つかった銅鐸の破片がナグサトベやニシキトベの遺体の一部であると、拡張解釈してもよいと思います。破片の失われた部分は、ホトの火で熔解されて、銅鏡など、新時代の象徴に生まれ変ったと思います。「赤銅の世直し」と呼ばれたゆえんです。
****
出雲と熊野・・・イザナミの葬地
国生みの女神イザナミは原初の金属神の代表であり、銅鐸の象徴にほかならないことは既に述べた。イザナミの埋められた場所は『古事記』では出雲の比婆山であり、『日本書紀』の一書には、紀伊国の熊野の有馬村となっている。出雲・紀伊ともに銅鐸の出土数の多い国柄である。銅鐸はサメを形象した弥生時代の金属神であり、竜蛇神であることは第三章で詳しく述べた。出雲にはサメの伝承が多いが、紀伊国も同様であることは参考資料として掲げた谷川健一氏の次の文章からも分かる。
〈参考資料〉: 『熊野年代記』には鮫に関するいくつかの記事が見付かる。承和十三年(八四六年)新宮川口に大鮫入り、川の主となる。承暦元年(一〇七七年)新宮川口に大鮫入り、二十日を経。川水三尺上る。川口を三日祭る。弘安十年(一二八七年)熊野長床(山伏)飛鳥川の大鮫を斬る。此時八月より十月に至るまで入津をとむ。これらの記事が明確にするのは、じつに数百年間、熊野地方では鮫に畏敬をもって臨んでいたということである。飛鳥川とは、熊野本宮のあたりをそう呼んでいるが、そこでスサノオのオロチ退治のように、山伏が鮫を退治したことは、自然の暴威をふるうのがほかならぬ鮫で、その鮫のためにしばしば洪水が起こると信じられていたからであろう。ところでサメ=フカは出雲ではワニと呼ばれており、このワニ=サメが熊野でもまたあらぶる神として畏敬されていたことを思うときに、ここにおいて、熊野川の流域に見られるワニ=サメにたいする神格化がすでに記紀の伝承と深い関連をもっていることを知るのである。***
(谷川健一「常世論」『谷川健一著作集8』三一書房)
「和歌山県の川には、海にしか生息しないサメが盛んに遊泳していた」というのは古代人の想像であろう。しかしそのサメが銅鐸のことであったと解釈すれば納得できることである。紀ノ川上流や、下流の有本の例のように砂の中から掘り出された銅鐸のことはさきの章で述べた。
出雲系の神スサノオについてみても、出雲と熊野の関連がわかる。『日本書紀』の一書にスサノオの子のイタケルは、様々な種類の木の種をもって朝鮮半島から紀伊国に渡って来たとされる。紀伊国は「木の国」である。『魏志』倭人伝にいう狗奴国は、「クの国」すなわち「木の国」であろう。「木の国」は、邪馬台国の時代すなわち弥生時代後半の「世直し」の時代に、邪馬台国連合傘下の国を除く、他の全ての国々を指した広い概念の言葉であると考えられる。常陸国(茨城県)の風土記に、「古老のいへらく、筑波の県は、古、紀の国と謂ひき」とあるのはその名残ではないか。
イザナミの葬られたという熊野の有馬村のその場所は「花の窟」とされ、日本書紀には、「土俗、この神の魂を祭るには、花の時に花を以て祭る」とある。熊野市の熊野灘に面した高さ五六mの大岸壁の最下部にある岩穴がそれである。現在は神社となっていて、イザナギと火の神カグツチを祀っている。そそり立つ巨岩が御身体で、海に向かった岩穴はイザナミの女陰(ホト)とみなされている。私は、そこにはかつて銅鐸が祀られていたと推測する。「花の窟」とよく似た遺跡が近くにあり、そこからは銅鐸が出ているからである。
ところで、キラキラしい金属の神を表すのに「花」が当てられる例として、コノハナサクヤヒメをさきに挙げたが、その他の例として、播磨国風土記の記事がある。加毛郡の条に「花波山」の地名由来として、「近江の国の花波の神がこの山にいる」とある。また、同郡の「腹サキの沼」の説明として、「花浪の神は淡海の神の妻であるが、夫に怒って自ら腹をさいて沼に没した。そのために今に至まで、沼の鮒どもには五臓がない」という記事がある。これらの記事から推測すると、「花浪の神」とは、近江系の銅鐸のカミのことであろう。弥生時代末期、近江は銅鐸信仰の一中心地であったことは考古学上明らかである。また女神イザナミではないが、この夫イザナギの葬られた地が近江であるとも言い、また淡路島であるというのは意味のあることである。花浪の神の妻が「夫に怒って自ら腹をさいて沼に没した」というのは、弥生時代末期の宗教転換の時代に、銅鐸を信仰していた人々自ら、その銅鐸を裂いて沼に投げ入れたということであろう。
「花の窟」から二〇㎞ほど西南方向へ行くと、それよく似た景観のゴトビキ岩がある。新宮市の千穂ケ峯の南端の絶壁の上にあり、やはり熊野灘に面した巨岩である。神武紀に登場する天磐盾ともみなされていて、熊野速玉大社の摂社である神倉神社のご神体となっている。巨大なゴトビキ岩を袈裟岩が支える構造になっているが、この袈裟岩の穴から袈裟襷文銅鐸の破片が出土している。さきに少し触れた銅鐸とはこの銅鐸のことであった。この場所が弥生時代には既に祭祀の場であったことが分かる。 毎年二月六日に行なわれる神倉神社の壮絶な火祭りは県の無形文 化財にもなっている。この火の神の祀りが神社の起源であることをうかがわせる。銅鐸は水の神であるが、同時の金属と火の神でもあった。
****
Re: iPhoneから修正テスト
投稿者:
琉球松
投稿日:2012年 5月 2日(水)10時40分54秒 ai126212168051.5.tik.access-internet.ne.jp
返信・引用
編集済
名護先生、よかったですね。
しかし、携帯の文字の大きさは問題ないんでしょうか。なんか「少彦名」みたいに小さいですよ(笑)。
ところで、女性説をとる長部日出雄さんは "稗田阿礼は日本最初の女性作家" と書いてますね。
以下『「古事記」の真実(文藝春秋)2008 』より
*** 『古事記』の女性原理が、はっきり表に出てくるのは、天照大御神と須佐之男命のあいだで争われた「祈誓」の場面である。
自分の物実(物種)から生まれたのが、女ばかりであったのを理由に、須佐之男命はみずから勝利を宣言する。
皇統は男系継承であるから、それは高天の原を奪おうととする異心がなかったことの証拠にもなるわけだが、しかしそれ以上に「我が心清く明し。故、我が生める子は手弱女を得つ。これによりて言さば、自ら我れ勝ちぬ」という須佐之男命の勝利宣言に、ここでは女性である稗田阿礼の本心から湧き出た「声」が聞こえる気がする(なぜなら『日本書紀』では、祈誓の判定のつけ方が、生まれるのが男であればきよき心、女であればきたなき心、と正反対になっているからだ)。***
iPhoneから修正テスト
投稿者:
名護
投稿日:2012年 4月30日(月)17時45分58秒 softbank221096125149.bbtec.net
返信・引用
編集済
琉球松さん、「ケータイで使う」を使ってみましょう。
あ、編集の画面が出てきました。出来るようです。ありがとうございました(^-^)/。
奧渡
投稿者:
琉球松
投稿日:2012年 4月29日(日)09時09分52秒 ai126241008023.tik.access-internet.ne.jp
返信・引用
編集済
名護先生へ
記事の編集削除は、投稿した同一端末機器でしか行なえないようです。iPhone から投稿できるかは、ちょっと調べてみますが、投稿欄下の「ケータイで使う」の手続きで可能になるかもしれません。
。。。昨日は、与論町と国頭村共催の "復帰要求海上集会" が行われたようですね。復帰運動に熱心だった祖父の赤鉢巻きを思い出します。
「先に復帰して沖縄に申し訳ない」と語る奄美の方々がいらっしゃったようですが、祖父はむしろ勇気づけられたようで「奄美に続け!」って言ってましたよ。
琉球圏を分断している北緯27度線は、1609年の薩摩侵攻以来のラインなんでしょうけど、鹿児島県と沖縄県によって隔てられているとも言えそうです。
この海峡は、沖縄諸島と与論島を繋ぐ橋でしょうし、神歌や『おもろさうし』などで考えてみても、奄美諸島と沖縄諸島の間には、なんの壁もないように思います。奄美の日本復帰が実現するまでの8年間が、つかの間の統一琉球の時代なのでしょうかね。
写真は、辺戸与論間の海峡「奧渡」
訂正
投稿者:
名護
投稿日:2012年 4月28日(土)08時58分9秒 pw126209161150.4.kyb.panda-world.ne.jp
返信・引用
iPhoneからは自分の投稿も修正出来ないようで、ここに訂正記事を--。
下の投稿で
「スサノオのナクサトベ」 は
「スサノオと(御神体=銅鐸としての)ナグサトベ」
に訂正
スサノウ系とアマテラス系
投稿者:
名護
投稿日:2012年 4月27日(金)11時34分26秒 pw126210159043.5.kyb.panda-world.ne.jp
返信・引用
火の神、迦具土の出現は、 大陸からの新文明の到来を言っているのでしょう。イザナミ(女性神、出雲文化を代表する神)の死は、金属と稲作の到来による社会の発展と混乱によって、日本列島の女性たちが死ぬ、女性たちの主導権、 なかでも神を祭る権威が失われたことを象徴するのでしょう。その迦具土を日本書紀のある書では、三段( みくだ) に切るという表現もあります。スサノオの剣を三段に折る、ナクサトベを三部分に切って殺す表現と共通ですね。ということは、スサノオのナクサトベも、火の神の産物なのでしょう。
以上は、新着順1番目から30番目までの記事です。
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